許達然(許文雄)老師以《台灣詩裡的疏離和抗議,1924-1945 》(台南市政府2015台南福爾莎國際詩歌節出版),取得2016年的"巫永福文學評論獎":這篇論文的許多章節以及論文《相反論述》等,都會給我們討論張深切先生的革命事業和抗議精神許多啟示。賴和與張深切是兩位為霧社抗日事件發表作品的 (詩歌、劇本)。
《張深切全集‧卷八‧遍地紅 霧社事件(影劇小說)婚變(影劇小說)》
賴和、
林淇瀁新增了
3 張相片。
為敘事史詩〈霧社〉進了錄音室
今天下午在音樂製作人、鋼琴家
林少英安排下,前往王家棟位於新店的錄音室,以朗讀的方式錄製我寫於24歲的敘事史詩〈霧社〉。這首詩寫霧社事件,寫於1979年9月,後寄時報文學獎敘事詩獎;12月10日美麗島事件爆發,使這首詩從得獎到刊登都產生了一些波折。
〈霧社〉長達三百多行,我寫作時雖然有意以劇場方式處理,但一直不認為這樣長的詩適合公開朗讀,直到2013年,因為少英的指定,才首次在當年詩人節她策畫的「追魂III」中正式以朗讀&爵士音樂混音方式演出,並獲得不錯的回響。三年後,少英希望將〈霧社〉製成CD,請來當代台灣最好的engineer家棟兄錄製,因而有了今天的行程。
錄製時間從下午三點開始,直到晚上十點才結束,家)
棟兄的專業、嚴謹和敏銳音感,都讓我佩服;少英的執著、認真和對我的詩的抬愛,還有宜蘭喚醒堂
林廷縉兄在百忙中專程趕來旁聽,也讓我感動。
人間眾緣,如老樹盤根,翠蓋盎然,仰有白雲在天,俯有黃花在心,即是幸福!
(
顏尚亭/攝)
昨天與
方梓在
飛頁書餐廳對談文學的「方」與「向」,開放討論時,永遠的文青
呂學源手拿音樂家
林少英製作的《霧社:向陽敘事詩 林少英交響曲》,請我談談這張市面上不易看到、買到的CD。
學源似乎有備而來,我述說林少英如何發心以交響樂搭配我的〈霧社〉敘事詩時,用手機錄影下來,並po在他的臉書上。他喜愛這張CD,也希望這CD能被更多人聽到。能有如此知音,其實足矣。
少英看到了,也寫了一段文字,談她為何費盡心力,以民間力量製作兩張《霧社》CD(另一張是《霧社交響詩:賽德克悲歌1930》)的心情。
一如少英所說,我最早朗讀360行〈霧社〉長詩是在新北市演藝㕔演出的【追魂三】,無間段唸完此詩,少英以鋼琴和管樂來詮釋。這個因緣,讓她決定一定要想辦法以交響詩的方式來呈現。她敢於作夢,終於在去年年底要我進錄音間錄音。兩片CD也因此製作完成。
對於少英(以及
林廷縉)的雅意,我滿是感謝。《霧社:向陽敘事詩 林少英交響曲》作為我的第一張朗讀CD,能以交響樂的方式呈現,重現1979年我含淚寫作此詩的心境,少英和廷縉自是我的貴人。人與人之間,因為互相欣賞,而得以結緣,就是最大幸福。
"個人一直認為,真正的真實往往比虛構更震撼人心。一九三一年的十月清算,是為了剷除殺日本人卻逃過一劫的漏網之魚。一百零六名族人被帶到埔里街參加歸順式,在郡役所被點到名的人「進去」之後,官方將他們的衣服拿出來,要家人拿回去。家人就知道是怎麼一回事了。瓦歷斯.巴卡哈(Walis Bagah)是羅多夫頭目的二兒子,他被警察點到名時,馬上對父親說:「Betaq ta hini di!」(我們就到此為止。)那種面對命運的鎮靜,讓人動容。然後,少了五分之一強的「隊伍」,就這樣,沒人問一聲,默默搭台車返回部落。回到部落,他們對其他人說:「我們的青壯年回不來了。」 讀者諸君,你知道瓦歷斯.巴卡哈幾歲?才二十歲!那種鎮靜,要如何理解?然後,那些回到部落的婦孺老幼,必須面對少掉二十三名青壯年的真實日子。他們不想念、擔心這些子姪嗎?那些族人在拘留所的際遇,又是如何呢?日文資料記載,那些族人從該年十二月到第二年三月初陸續「病死」在拘留所。真的嗎?有一些非常可怕的傳說……以國家暴力遂行個人或族群的復仇惡念,肯定是在人間造地獄"...英雄、英雄崇拜|藝文新聞|中時電子報 號稱史詩巨著的電影《賽德克.巴萊》,上下集如火如荼交接熱映中,攝製團隊的賽德克族語言翻譯者之一,也是隨拍的族語顧問郭明正(族名Dakis Pawan),他從賽德克族人、霧社事件餘生者後裔乃至電影工作人員的角度,寫成《真相.巴萊》一書,即將由遠流出版。該書呈現看賽德克族文化的今昔狀況、探討莫那魯道的歷史定位,而且深入剖析電影重要角色、劇本跟真實歷史的對照解說。難得的,對於台灣史傾注愷切深厚感情的台大歷史系教授周婉窈,欣慨為文作序,向來慢工細筆的周老師,推崇該書之餘,對於霧社事件的緣由經過,人事時地物,乃至族群背景,字裡行間皆充滿理解與寬容,以及愛。讀來溫暖並油然而生平和意念。是以作為本專輯的壓...
霧社事件忘れない 1930年の抗日武装蜂起 台湾で慰霊祭
2016年10月30日03時05分 (更新 10月30日 09時49分http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/285569
モーナ・ルーダオの像(右奥)の前で犠牲者を弔う踊りを披露する子どもたち
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台湾が日本の統治下にあった1930年に南投県仁愛郷霧社地区で起きた抗日武装蜂起「霧社事件」の慰霊祭が27日、現地で催され、千人以上に及ぶ犠牲者の霊を弔った。事件を起こした地区内の先住民、セデック族は約40キロ離れた山里に強制移住させられ、過酷な生活を強いられたが、原野を切り開いて約85年生き抜いてきた。遺族は「もう恨みはない。事件を忘れないことが大事」「他の民族と力を合わせて頑張りたい」と語り、祖先をしのんだ。 (台北・中川博之)
3千メートル級の山が連なる中央山脈の中腹にある霧社。慰霊碑の前で行われた慰霊祭には約400人が参列し花や果物、酒をささげ、踊りを披露した。南投県府長官は「自由のために命を犠牲にして戦ったみなさんに祈りをささげられることに感謝する。さまざまな民族が和解し、融合する社会を目指す」とあいさつした。
事件を起こしたセデック族は、日本の軍隊や警察に制圧されただけでなく、日本側についた他の部族による襲撃も受けた。生き残った298人は翌年、約40キロ離れた清流地区へ移住させられた。
事件で父方と母方の祖父母4人全員が自殺したという黄瑞香さん(76)によると、清流地区に着いた母親たちは原野を切り開き、わずかなもみ米で稲を植え、周囲の集落から食料を分けてもらい飢えをしのいだという。
慰霊祭で遺族代表としてあいさつした曾春風さん(75)によると、移住先は気候や水が違うためマラリアなどで多くの高齢者や子どもが亡くなり、一時は人口が2割ほど減少。曾さんは「母親は『霧社には絶対に住むな。また同じようなことが起きるかもしれない』と話していた。事件のことがずっと心に残っていた」と振り返る。
ただ、日本に対する「恨みはない」と言い切る。現在、清流地区には当時より200人ほど多い約500人が暮らし、農業で生計を立てているほか、6~7割の住民は地区内外で公務員として働いている。曾さんは「日本がすばらしい教育を残してくれたおかげ」と語り、黄さんも「みんなが頑張り清流地区はすばらしい場所になった。ここを訪れる日本人はみんな友達」と話す。
台湾の先住民は約55万人で人口全体の約2%を占める。マレー・ポリネシア系の固有の言語を持ち、狩猟や漁をして暮らしてきたが、17世紀初頭のオランダ以降、清朝、日本、国民党による支配を受け、土地を奪われ、同化を強いられた。各地で抵抗が相次いだ結果、多くの命も奪われた。蔡英文総統は8月、「400年来、皆さんが味わってきた苦しみと不平等に対し政府を代表しおわびする」と謝罪。先住民の自治の促進や地位向上に向けた新法の整備を進めている。
【ワードBOX】霧社事件
日清戦争で勝利した日本が台湾を統治していた1930年10月27日に起きた先住民による大規模な抗日武装蜂起。モーナ・ルーダオ率いる若者ら約300人が、霧社公学校(小学校)で開かれていた運動会を襲撃し日本人130人以上を殺害した。先住民側も軍隊や警察による鎮圧、敵対部族による襲撃で、自殺者も含めて約1000人が死亡した。発端はモーナ・ルーダオの長男と日本人巡査のトラブルとされるが、日本による森林開発のための過酷な労役や先住民の狩猟の場がなくなったことも原因に挙げられている。
=2016/10/30付 西日本新聞朝刊=