2012年5月19日 星期六

文藝復興時期的佛羅倫斯 --- Leon Battista Alberti與他的城市

  •  這note 是謝函
    我與臺大歷史系有些緣份
    譬如說 十幾年前有一門宋史的作業是一份宋代的"日報" (可惜我當時沒去要)

    今晚與玉燕參加
    這是歷史系藝術史的一門課的報告實習
     包括三單元
    1.介紹文藝復興早期的人地作品等 放NHK 的一部早期文藝復興  我只知道約1991年這是6本書 DVD可能3盤
    2  他們發表二組作業 都是以 Leon Battista Alberti生平與他的城市 *為主題
     一組是偵探廣播劇
     另一組是設計像"大富翁"般的BOARD GAME(更有文化水準: 地點是15世紀的翡凝翠) (每盤4人比賽 一組裁判  我得第2名獎金200元(送回)


    *Juran Quality HANDBOOK 第5板 1998 某章即是以他的名建築為內容

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    文藝復興時期的佛羅倫斯 --- Leon Battista Alberti與他的城市
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  • 文藝復興時期的佛羅倫斯 --- Leon Battista Alberti與他的城市
    • 時 間:2012年5月18日(五)18:30
    • 地 點:NTU  活大202
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    • 這是歷史系藝術史的一門課的報告實習
    •  包括三單元
    • 1.介紹文藝復興早期的人地作品等 放nhk的一部早期文藝復興  我只知道約1991年這是6本書 DVD可能3盤
    • 2他們發表二組作業 都是以 Leon Battista Alberti生平與他的城市 為主題: 一組是偵探廣播劇
    •  另一組是設計像"大富翁"般的BOARD GAME(更有文化水準: 地點是15世紀的翡凝翠 (每盤4人比賽 一組裁判  我得第2名獎金200元(送回)
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       来年1月2日午後18時5分からNHKで「フィレンツェルネサンス」という現地から生中継の番組が放送されるとのこと。ダヴィンチ、ミケランジェロらが活躍したフィレンツェでの生中継放送ということもあってかなり楽しみにしています。
       中継される場所はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、サン・ジョバンニ洗礼堂、ヴァザーリの 回廊、ヴェッキオ橋、ウフィツィ美術館、シニョーリア広場、ヴェッキオ宮殿等を中継として回るそうです。そして、フィレンツェの良さを現地生中継というな かなか見れない異例さで伝えてくれるはずです。生中継特有のアクシデントもあるかもしれないです。
       これが初めての企画というわけではないようで、前回はフランスを舞台に、南フランスのプロヴァンス を特集していました。もちろん私もTVに釘付けで楽しませてもらいました。現地を各班に分かれて突撃取材のような感じで放送されてました。石鹸のおしゃれ なお店とか。ちょっとした広場でライブ等を行う場所を訪れたりと、フランスのプロヴァンスの良さを魅せてくれました。おかげで一晩でフランスのファンに。 前まではイタリアが一番好きな国で、あとはイングランドとか(イングランドの場合はフットボールとホームズが好きだから)でした。
       本当に今回も楽しみにしてますよ。フィレンツェに一度行ってみたい・・・。行こうと思えば行けなくはないけど、今の時期は忙しいだけに難しいし。イタリアに住むならフィレンツェかヴェネツィアと勝手に決めている私です。
       出演者もNHKのアナウンサーと専門の知識を持った大学教授、そして、女優の中越典子さんも出演とのこと。正月2日からということもあって、なかなか忙しい時期だけど、TVでのんびりイタリア風な癒しを味わえると思うので見たいと思います。
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    • NHKフィレンツェ・ルネサンス (1)
       
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      NHKフィレンツェ・ルネサンス (1) [大型本]

      森田 義之
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      登録情報

    • 大型本: 134ページ
    • 出版社: 日本放送出版協会 (1991/07)
    • ISBN-10: 4140087595
    • ISBN-13: 978-4140087596
    • 発売日: 1991/07
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      NHKフィレンツェ・ルネサンス(2)

    • 美と人間の革新
    • 森田義之日高健一郎
    • NHK出版
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    • 『NHKフィレンツェ・ルネサンス 1 ――夜明け』(共編著)日本放送出版協会 1991年 ISBN 9784140087596
    • 『NHKフィレンツェ・ルネサンス 3 ――百花繚乱の画家たち』 ISBN 9784140087619
    • 『NHKフィレンツェ・ルネサンス 4 ――再生への讃歌』 ISBN 9784140087626
    • 『NHKフィレンツェ・ルネサンス 5 ――三巨匠』 ISBN 9784140087633

  • 『NHKフィレンツェ・ルネサンス 2 ――美と人間の革新』(日高健一郎共著) ISBN 9784140087602
  • 『NHKフィレンツェ・ルネサンス 6 ――花の都の落日』(日高健一郎共著) ISBN 9784140087640
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    •  Wikipedia
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    •  萊昂·巴蒂斯塔·阿爾伯蒂(Leon Battista Alberti,1404年2月18日-1472年4月20日)是文藝復興時期義大利建築師建築理論家作家詩人哲學家密碼學家,是當時的一位通才。他被譽為是真正作爲復興時期的代表建築師,將文藝復興建築的營造提高到理論高度。他著有《論建築》,於1485年出版,是當時第一部完整的建築理論著作,並因應谷騰堡的印刷術的幫助下,推動了文藝復興運動的發展。阿爾伯蒂仿古建築設計手法嚴謹純正,他在《論建築》這本書裡面體現了從文藝復興人文主義者地角度討論了建築的可能性,並提出應該根據歐幾里得的數學原理,在圓形、方形等基本集合體制上進行合乎比例的重新組合,以找到建築中「美的黃金分割」。他在建設Palazzo Rucellai的過程中使用了各種柱式,而這些柱子都擁有經過精心推敲的比例。而宮殿的頂部也是獨創的深出簷,甚至遮住了屋頂,使得建築的外觀保持完整的方形。代表作有佛羅倫斯魯奇蘭府邸

      生平

      童年與在學時期

      萊昂本身是佛羅倫斯一個富裕的商人Lorenzo Alberti與Bologna的一位寡婦在熱那亞所生的兩位私生子之一。由於他的私生子身份,他的一家被統治佛羅倫斯的阿爾伯蒂家族禁止在佛羅倫斯居住,而另一方面,他的母親亦於瘟疫中死去,所以萊昂在早年與父親只好投靠在威尼斯辦銀行的叔叔。他的父親在他4歲時的1408年再婚,而在1428年時,家族的禁令撤銷,使他們一家可以回到佛羅倫斯定居。
    •   レオン・バッティスタ・アルベルティLeon Battista Alberti1404年2月14日 - 1472年4月25日)は、初期ルネサンス人文主義者、建築理論家、建築家である。専攻分野は法学古典学数学演劇作品、作であり、また絵画彫刻については実作だけでなく理論の構築にも寄与する。音楽と運動競技にも秀で、両足を揃えた状態で人を飛び越したと伝えられる。
      彼は多方面に才能を発揮し、ルネサンス期に理想とされた「万能の人」の最初の典型と言われた天才。確実に彼に帰属するとされる絵画、彫刻は現在のところ伝わっておらず、建築作品についても少数ではあるが、芸術理論は様々な分野で後世に影響を与えた。

      目次

      生涯 [編集]

      アルベルティ家はフィレンツェにおいて銀行を営む有力商人貴族であったが、グエルファ党に属していたため、ギベリン党との抗争によって1387年に国外追放された。レオンはロレンツォ・アルベルティの庶子として亡命先のジェノヴァに生まれ、1414年にはヴェネツィアに移住した。早くから英才教育を受け、パドヴァで古典学と数学を学んだ後、1421年ボローニャ大学に進んだ。彼はそこで教会法で学位を取得し、1428年に卒業。以後は1432年に教皇庁の書記官となるまでヨーロッパを歴訪した。 1428年には、アルベルティ家への追放命令が解除されたためフィレンツェを訪れ、1434年にはエウゲニウス4世とともに再訪するが、そこでフィリッポ・ブルネレスキドナテッロマザッチョと親交を結んだ。1436年には、彼らに『絵画論(Della pittura)』を献呈している。
      1432年頃、ローマに移住し、親友であったフラーヴィオ・ビヨンドの仲介により、教皇庁の記念物監督官となった。エウゲニウス4世は、すでに建築事業顧問であったベルナルド・ロッセリーノにアルベルティの助言を仰ぐことを指示し、1453年から断続的にアクア・ヴェルジネの水路修復とトレヴィの泉の造営を行った。しかし、トレヴィの泉は1732年から全面的に改修されたため、彼らの作品をみることはできない。教皇庁において、アルベルティはキケロなどの古代ローマ時代の人文学に傾倒した。特に彼の目を引いたのは、ウィトルウィウスの『建築について』であったと考えられる。アルベルティは、そこに書かれている人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎として、1451年までに著書『建築論(De re aedificatoria)』を完成させた。彼は、この論考に死ぬまで手を入れており、1485年になってフィレンツェで刊行された(原本・初版ともにラテン語である。イタリア語訳のものは、1546年にヴェネツィアで発刊された)。
      アルベルティは、フィレンツェの有力な商人であったジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェッライと親しく、1446年に起工されたパラッツォ・ルチェライの設計を行っている。これは全面的にオーダーを用いた最初の例で、ファサードは明らかにローマのコロッセウムを参考にしている。その後、彼はルーカ・デッラ・ロッビアとともにリミニシジズモンド・マラテスタ公に召喚され、1446年10月31日に、サン・フランチェスコ聖堂を改装してテンピオ・マラテスティアーノとする工事が起工する(これはシジズモンド・マラテスタ公の失脚と死により未完に終わった)。 フィレンツェに戻った彼は、パオロ・ルチェッライからサンタ・マリア・ノヴェッラ教会正面の設計を委託された。アルベルティは、正方形の組み合わせと単純な比例関係を構築し、総大理石のファサードを設計したが、これが完成したのは彼の死後、1477年である。フィレンツェでは、1460年ミケロッツォ・ディ・バルトロメオの設計によるサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の建築を引き継ぎ、後陣部分の設計にも携わっている。
      1459年ピウス2世に従ってマントヴァを訪れたアルベルティは、1470年に再びここを訪れ、二つの教会、サン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレア聖堂の設計を請け負った。前者の設計は1460年に構想されており、1470年に修正、起工された。後者は1470年に構想された、彼の最も影響力の大きい建築である。ラテン十字の平面を持つこの教会堂には、古代ローマ神殿と凱旋門のデザインを適用しており、内部はブルネレスキのデザインしたトスカーナのロマネスク的バシリカ型とは異なる、堂々としたトンネル型ヴォールトを用いた。
      1471年にもマントヴァに滞在するが、ローマに戻った1472年に死去した。彼は、親切で礼儀正しく、紳士的であったため、生涯を通じて尊敬された。

      影響 [編集]

      彼は芸術のみならず、科学的分野においても足跡を残している。暗号アルファベットを交互に使用する多アルファベット換字式暗号(Polyalphabet substitution cipher)(ヴィジュネル暗号の原型)を発明したことはよく知られているが、その思考は数学論だけではなく、力学、家庭経済にも及ぶ。
      アルベルティの『絵画論(De pictura)』は、西洋絵画を確立したものであると言っても過言ではない。彼は遠近法の手法を構築し、絵画は遠近法と構成と物語の三つの要素が調和し たものであると考え、これによって絵画の空間を秩序づけた。彼は、芸術作品について常に調和を重んじ、それを文法化することに腐心した。そのため、彼の芸 術論は非常に優れたテキストであった。
      ルネサンス最初の建築理論となる『建築論』は、ウィトルウィウスの 『建築十書』と、ローマ建築の遺構を調査して書き上げられたものであるが、ウィトルウィウスのラテン語能力の低さと、用いられているギリシャ建築の用語が 全く知られていなかったため、『建築について』の理解は多難を極めた。しかし、彼は建築比例と5種類のオーダーを再発見し、その要素を『建築論』にまとめ た。アルベルティの紹介した人体比例は、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なスケッチ、『ウィトルウィウスによる人体比例図』に図式されている。建築論を書いた後に設計をはじめたという点が独特であるが、その建築作品は教条的ではなく、自らの『建築論』にしたがわない部分もしばしば見受けられる。また、ローマ建築を懐古的に処理することもなく、むしろ自由に、実験的に操作した。

      主要作品 [編集]


      サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード
    • 『重量・挺・牽引法(Trattato sui pondi,leve e tirari)』
    • 『数学的遊戯(Ludi matematici)』
    • 『家族論(Della famiglia)』
    • 『市民生活論(Teogenio)』
    • 1435年に執筆 『絵画論(De pictura)』 
    • 1443年から1451年に執筆 『建築論(De re aedificatoria)』(初版は1485年
    • 1446年頃起工・1451年完成 パラッツォ・ルチェッライ(フィレンツェ)
    • 1446年起工・1468年中断(未完) テンピオ・マラテスティアーノのファサード(リミニ)
    • 1456年起工・1470年完成 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード(フィレンツェ)
    • 1460年頃設計 サン・セバスティアーノ教会(マントヴァ)
    • 1472年起工・1494年完成 サンタンドレア教会(マントヴァ)

    日本語文献 [編集]

  • 三輪福松訳 『絵画論』 中央公論美術出版、新装版1992年
  • 森雅彦編訳 『芸術論』 中央公論美術出版、1992年、新装版2011年
  • 相川浩訳 『建築論』 中央公論美術出版、1982年
  • 池上俊一・徳橋曜共訳 『家族論』 講談社、2010年
  • 相川浩 『建築家アルベルティ クラシシズムの創始者』 中央公論美術出版、1988年
  • 池上俊一 『イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ』 講談社学術文庫、2007年
    • Leon Battista Alberti
      Birth name Leon Battista Alberti
      Born February 18, 1404
      Genoa, Italy
      Died April 20, 1472 (aged 68)
      Rome
      Nationality Italian
      Field Architecture, Linguistics, Poetry
      Movement Italian Renaissance
      Works Tempio Malatestiano, Palazzo Rucellai, Santa Maria Novella
      Leon Battista Alberti[1] (February 18, 1404 – April 20, 1472) was an Italian author, artist, architect, poet, priest, linguist, philosopher, cryptographer and general Renaissance humanist polymath. Although he is often characterized as an "architect" exclusively, as James Beck has observed,[2] "to single out one of Leon Battista's 'fields' over others as somehow functionally independent and self-sufficient is of no help at all to any effort to characterize Alberti's extensive explorations in the fine arts." Alberti's life was described in Giorgio Vasari's Vite de' più eccellenti pittori, scultori, e architettori or 'Lives of the most excellent painters, sculptors and architects'.
      Contents

      Childhood and education

      An Italian humanist, Alberti is often seen as a model of the Renaissance "universal man".[3] He was born in Genoa, one of two illegitimate sons of a wealthy Florentine merchant, Lorenzo Alberti. Leon Battista's mother, Bianca Fieschi, was a Bolognese widow who died during an outbreak of bubonic plague. Like many other families, the Albertis had been expelled from their native city, Florence, by the republican government, run by the Albizzis. At the time of Leon Battista's birth, his father Lorenzo lived in Genoa, but the family soon moved to Venice, where Lorenzo ran the family bank with his brother. Lorenzo married again in 1408. The ban on the family was lifted in 1428, and that same year Leon visited Florence for the first time.
      Alberti received the best education then available to an Italian nobleman. From around 1414 to 1418 he studied classics at the famous school of Gasparino Barzizza in Padua. He then completed his education at the University of Bologna, where he studied law. In his youth, according to stories, Alberti could—with his feet together—jump over a man's head, he was a superb horseman, and he "learned music without a master, and yet his compositions were admired by professional judges." [4]
      After the death of his father, Alberti was supported by his uncles. In his twenties Alberti wrote On the Advantages and Disadvantages of Letters, which he dedicated to his brother Carlo, also a scholar and writer. Alberti's Latin comedy, Philodoxus, aimed to teach that "a man dedicated to study and hard work can attain glory, just as well as a rich and fortunate man." For a short time it was passed as a genuinely antique Roman play. Like Petrarch, who had been the first famous philologist to study the works of the ancient Roman poets, Alberti loved classics, but he compared continual reading and rereading in libraries. Later he also complained, that "the learned don't become rich, or if they do become rich from literary pursuits, the sources of their wealth are shameful." Other early works, Amator (ca. 1429), Ecatonfilea (ca. 1429), and Deiphira (ca. 1429–1434), dealt with love, virtues, and failed relationships.

      Study of perspective

      Alberti regarded mathematics as the common ground of art and the sciences. "To make clear my exposition in writing this brief commentary on painting," Alberti began his treatise, Della Pittura (On Painting), "I will take first from the mathematicians those things with which my subject is concerned." [5]
      This treatise (Della pittura ) was also known in Latin as De Pictura, and it relied in its scientific content on classical optics in determining perspective as a geometric instrument of artistic and architectural representation. Alberti was well-versed in the sciences of his age. His knowledge of optics was connected to the handed-down long-standing tradition of the Kitab al-manazir (The Optics; De aspectibus) of the Arab polymath Alhazen (Ibn al-Haytham, d. ca. 1041), which was mediated by Franciscan optical workshops of the 13th-century Perspectivae traditions of scholars such as Roger Bacon, John Peckham and Witelo (similar influences are also traceable in the third commentary of Lorenzo Ghiberti, Commentario terzo).[6]
      In both Della pittura and De statua, a short treatise on sculpture, Alberti stressed that "all steps of learning should be sought from nature."[7] The ultimate aim of an artist is to imitate nature. Painters and sculptors strive "through by different skills, at the same goal, namely that as nearly as possible the work they have undertaken shall appear to the observer to be similar to the real objects of nature."[7] However, Alberti did not mean that artists should imitate nature objectively, as it is, but the artist should be especially attentive to beauty, "for in painting beauty is as pleasing as it is necessary."[7] The work of art is, according to Alberti, so constructed that it is impossible to take anything away from it or add anything to it, without impairing the beauty of the whole. Beauty was for Alberti "the harmony of all parts in relation to one another," and subsequently "this concord is realized in a particular number, proportion, and arrangement demanded by harmony." Alberti's thoughts on harmony were not new—they could be traced back to Pythagoras—but he set them in a fresh context, which fit in well with the contemporary aesthetic discourse.
      In Rome, Alberti had plenty of time to study its ancient sites, ruins, and objects. His detailed observations, included in his De Re Aedificatoria (1452, Ten Books of Architecture),[8] were patterned after the De architectura by the Roman architect and engineer Vitruvius (fl. 46-30 B.C.). The work was the first architectural treatise of the Renaissance. It covered a wide range of subjects, from history to town planning, and engineering to the philosophy of beauty. De re aedificatoria, a large and expensive book, was not fully published until 1485, after which it became a major reference for architects.[9] However, the book was written "not only for craftsmen but also for anyone interested in the noble arts," as Alberti put it.[citation needed] Originally published in Latin, the first Italian edition came out in 1546. and the standard Italian edition by Cosimo Bartoli was published in 1550. Pope Nicholas V, to whom Alberti dedicated the whole work, dreamed of rebuilding the city of Rome, but he managed to realize only a fragment of his visionary plans. Through his book, Alberti opened up his theories and ideals of the Florentine Renaissance to architects, scholars and others.
      Alberti wrote I Libri della famiglia—which discussed education, marriage, household management, and money—in the Tuscan dialect. The work was not printed until 1843. Like Erasmus decades later, Alberti stressed the need for a reform in education. He noted that "the care of very young children is women's work, for nurses or the mother," and that at the earliest possible age children should be taught the alphabet.[7] With great hopes, he gave the work to his family to read, but in his autobiography Alberti confesses that "he could hardly avoid feeling rage, moreover, when he saw some of his relatives openly ridiculing both the whole work and the author's futile enterprise along it."[7] Momus, written between 1443 and 1450, was a misogynist comedy about the Olympian gods. It has been considered as a roman à clefJupiter has been identified in some sources as Pope Eugenius IV and Pope Nicholas V. Alberti borrowed many of its characters from Lucian, one of his favorite Greek writers. The name of its hero, Momus, refers to the Greek word for blame or criticism. After being expelled from heaven, Momus, the god of mockery, is eventually castrated. Jupiter and the other gods come down to earth also, but they return to heaven after Jupiter breaks his nose in a great storm.

      Architectural works


      Palazzo Rucellai
      For the Rucellai[10] family in Florence Alberti designed several buildings, the façade of Palazzo Rucellai, executed by Bernardo Rosselino, the façade of Santa Maria Novella, the marble-clad shrine of the Holy Sepulchre, and perhaps also the Capella Rucellai.
      Some dates vary from source to source; these come from Franco Borsi. Leon Battista Alberti. (New York: Harper & Row,1977)

      Other works and legacy


      Late statue of Leon Battista Alberti. Courtyard of the Uffizi Gallery, Florence
      Among Alberti's smaller studies, pioneering in their field, were a treatise in cryptography, De componendis cifris, and the first Italian grammar. With the Florentine cosmographer Paolo Toscanelli he collaborated in astronomy, a close science to geography at that time, and produced a small Latin work on geography, Descriptio urbis Romae (The Panorama of the City of Rome). Just a few years before his death, Alberti completed De iciarchia (On Ruling the Household), a dialogue about Florence during the Medici rule. Alberti died on April 25, 1472 in Rome.
      As an artist, Alberti distinguished himself from the ordinary craftsman, educated in workshops. He was a humanist, and part of the rapidly expanding entourage of intellectuals and artisans supported by the courts of the princes and lords of the time. Alberti, as a member of noble family and as part of the Roman curia, had special status. He was a welcomed guest at the Este court in Ferrara, and in Urbino he spent part of the hot-weather season with the soldier-prince Federico III da Montefeltro.[citation needed] The Duke of Urbino was a shrewd military commander, who generously spent money on the patronage of art. Alberti planned to dedicate his treatise on architecture to his friend.[citation needed]
      Giorgio Vasari, who argued that historical progress in art reached its peak in Michelangelo, emphasized Alberti's scholarly achievements, not his artistic talents: "He spent his time finding out about the world and studying the proportions of antiquities; but above all, following his natural genius, he concentrated on writing rather than on applied work." (from Lives of the Artists).[citation needed] Leonardo, who ironically called himself "an uneducated person" (omo senza lettere), followed Alberti in the view that painting is science. However, as a scientist Leonardo was more empirical than Alberti, who was a theorist and did not have similar interest in practice. Alberti believed in ideal beauty, but Leonardo filled his notebooks with observations on human proportions, page after page, ending with the famous drawing on the Vitruvian man, a human figure related to a square and a circle.
      "We painters," said Alberti in On Painting, but as a painter, or sculptor, Alberti was a dilettante. "In painting Alberti achieved nothing of any great importance or beauty," wrote Vasari.[citation needed] "The very few paintings of his that are extant are far from perfect, but this is not surprising since he devoted himself more to his studies than to draughtsmanship." Jacob Burckhardt portrayed Alberti in The Civilization of the Renaissance in Italy as a truly universal genius. "And Leonardo da Vinci was to Alberti as the finisher to the beginner, as the master to the dilettante. Would only that Vasari's work were here supplemented by a description like that of Alberti! The colossal outlines of Leonardo's nature can never be more than dimly and distantly conceived."[4] Burckhardt also mentions Alberti's love for animals. He had a pet dog, a mongrel, for whom he wrote a panegyric, Canis).[citation needed]
      Alberti is said to be in Mantegna's great frescoes in the Camera degli Sposi, the older man dressed in dark red clothes, who whispers in the ear of Ludovico Gonzaga, the ruler of Mantua.[citation needed] In Alberti's self-portrait, a large plaquette, he is clothed as a Roman. To the left of his profile is a winged eye. On the reverse side is the question, Quid tum? (what then), taken from Virgil's Eclogues: "So what, if Amyntas is dark? (quid tum si fuscus Amyntas?) Violets are black, and hyacinths are black."[citation needed]

      Contributions

      Alberti made a variety of contributions to several fields:
      • Alberti was the creator of a theory called "historia". In his treatise De pictura (1435) he explains the theory, of the accumulation of people, animals, and buildings, which create harmony amongst each other, and "hold the eye of the learned and unlearned spectator for a long while with a certain sense of pleasure and emotion". De pictura ("On Painting") contained the first scientific study of perspective. An Italian translation of De pictura (Della pittura) was published in 1436, one year after the original Latin version and addressed Filippo Brunelleschi in the preface. The Latin version had been dedicated to Alberti's humanist patron, Gianfrancesco Gonzaga of Mantua. He also wrote works on sculpture, De Statua.
      • Alberti used his artistic treatises to propound a new humanistic theory of art. He drew on his contacts with early Quattrocento artists such as Brunelleschi and Masaccio to provide a practical handbook for the renaissance artist.
      • Alberti wrote an influential work on architecture, De Re Aedificatoria, which by the 18th century had been translated into Italian, French, Spanish and English. An English translation was by Giacomo Leoni in the early 18th century. Newer translations are now available.
      • Whilst Alberti's treatises on painting and architecture have been hailed as the founding texts of a new form of art, breaking from the gothic past, it is impossible to know the extent of their practical impact within his lifetime. His praise of the Calumny of Apelles led to several attempts to emulate it, including paintings by Botticelli and Signorelli. His stylistic ideals have been put into practice in the works of Mantegna, Piero della Francesca and Fra Angelico. But how far Alberti was responsible for these innovations and how far he was simply articulating the trends of the artistic movement, with which his practical experience had made him familiar, is impossible to ascertain.
      • He was so skilled in Latin verse that a comedy he wrote in his twentieth year, entitled Philodoxius, would later deceive the younger Aldus Manutius, who edited and published it as the genuine work of 'Lepidus Comicus'.
      • He has been credited with being the author, or alternatively the designer, of the woodcut illustrations of the Hypnerotomachia Poliphili, a strange fantasy novel.[11]

      • He took great interest in studying the ruins of classical architecture in Rome and elsewhere. At Rome he was employed by Pope Nicholas V in the restoration of the papal palace and of the restoration of the Roman aqueduct of Acqua Vergine, which debouched into a simple basin designed by Alberti, which was swept away later by the Baroque Trevi Fountain. At Mantua he designed the church of Sant'Andrea, and at Rimini the church of San Francesco. On a commission from the Rucellai family he completed the principal facade of the church of Santa Maria Novella in Florence which had been begun in the previous century. He also built the facade for the family palace in the Via della Vigna Nuova, known as the Palazzo Rucellai, though it is not exactly clear what his role as designer was.
      • Alberti is also now thought to have had an important role in the designing of Pienza, a village that had been called Corsignano, but which was redesigned beginning around 1459. It was the birthplace of Aeneas Silvius Piccolomini, Pope Pius II, in whose employ Alberti served. Pius II wanted to use the village as a retreat but needed for it to reflect the dignity of his position. The design, which radically transformed the center of the town, included a palace for the pope, a church, a town hall and a building for the bishops who would accompany the Pope on his trips. Pienza is considered an early example of Renaissance urban planning.
      • Some studies[12] propose that the Villa Medici in Fiesole might owe its design to Alberti, not to Michelozzo, and that it then became the prototype of the Renaissance villa. Maybe also that this hilltop dwelling, commissioned by Giovanni de' Medici, Cosimo il Vecchio's second son, with its view over the city, is the very first example of a Renaissance villa: that is to say it follows the Albertian criteria for rendering a country dwelling a "villa suburbana". Under this perspective the Villa Medici in Fiesole could therefore be considered the "muse" for numerous other buildings, not only in the Florence area, which from the end of the 15th century onwards find inspiration and creative innovation here.
      • Apart from his treatises on the arts, Alberti also wrote: Philodoxus ("Lover of Glory", 1424), De commodis litterarum atque incommodis ("On the Advantages and Disadvantages of Literary Studies", 1429), Intercoenales ("Table Talk", ca. 1429), Della famiglia ("On the Family", begun 1432) Vita S. Potiti ("Life of St. Potitus", 1433), De iure (On Law, 1437), Theogenius ("The Origin of the Gods", ca. 1440), Profugorium ab aerumna ("Refuge from Mental Anguish",), Momus (1450) and De Iciarchia ("On the Prince", 1468).These and other works were translated and printed in Venice by the humanist Cosimo Bartoli in 1586.
      • Alberti was an accomplished cryptographer by the standard of his day, and invented the first polyalphabetic cipher which is now known as the Alberti cipher and machine-assisted encryption using his Cipher Disk. The polyalphabetic cipher was, at least in principle, for it was not properly used for several hundred years, the most significant advance in cryptography since before Julius Caesar's time. Cryptography historian David Kahn titles him the "Father of Western Cryptography", pointing to three significant advances in the field which can be attributed to Alberti: "the earliest Western exposition of cryptanalysis, the invention of polyalphabetic substitution, and the invention of enciphered code" (David Kahn (1967). The codebreakers: the story of secret writing. New York: MacMillan.).
      • According to Alberti himself, in a short autobiography written c. 1438 in Latin and in the third person, (many but not all scholars consider this work to be an autobiography) he was capable of "standing with his feet together, and springing over a man's head." The autobiography survives thanks to an 18th century transcription by Antonio Muratori. Alberti also claimed that he "excelled in all bodily exercises; could, with feet tied, leap over a standing man; could in the great cathedral, throw a coin far up to ring against the vault; amused himself by taming wild horses and climbing mountains." Needless to say, many in the Renaissance promoted themselves in various ways and Alberti's eagerness to promote his skills should be understood, to some extent, within that framework. (This advice should be followed in reading the above information, some of which originates in this so-called autobiography.)
      • Alberti claimed in his "autobiography" to be an accomplished musician and organist, but there is no hard evidence to support this claim. In fact, musical posers were not uncommon in his day (see the lyrics to the song Musica Son, by Francesco Landini, for complaints to this effect.) He held the appointment of canon in the metropolitan church of Florence, and thus – perhaps – had the leisure to devote himself to this art, but this is only speculation. Vasari also agreed with this.
      • He was also interested in the drawing of maps and worked with the astronomer, astrologer, and cartographer Paolo Toscanelli.

      Works

      • "Leon Battista Alberti. On Painting. A New Translation an Critical Edition", Edited and Translated by Rocco Sinisgalli,
      Cambridge University Press, New York, May 2011, ISBN 978-1-107-00062-9
      • Leon Battista Alberti. On Painting. A New Translation an Critical Edition, Edited and Translated by Rocco Sinisgalli,
      Cambridge University Press, New York, May 2011, ISBN 978-1-107-00062-9

      Bibliography

      References

      1. ^ In Italy, this first name is usually spelled "Leone", but Alberti is known as Leon.
      2. ^ James Beck, "Leon Battista Alberti and the 'Night Sky' at San Lorenzo", Artibus et Historiae 10, No. 19 (1989:9–35), p. 9.
      3. ^ See Kelly-Gadol, Joan. Leon Battista Alberti. Universal Man of the Renaissance. University of Chicago Press, 1969;
      4. ^ a b Jacob Burckhard in The Civilization of the Renaissance Italy, 2.1, 1860.
      5. ^ Leone Battista Alberti, On Painting, editor John Richard Spencer, 1956, p. 43.
      6. ^ Nader El-Bizri, "A Philosophical Perspective on Alhazen’s Optics," Arabic Sciences and Philosophy, vol. 15, issue 2 (2005), pp. 189–218 (Cambridge University Press).
      7. ^ a b c d e Books and Writing website – http://www.kirjasto.sci.fi/alberti.htm
      8. ^ Alberti,Leon Battista. On the Art of Building in Ten Books. Trans. Leach, N., Rykwert, J., & Tavenor, R. Cambridge: The MIT Press, 1988
      9. ^ Center for Palladian Studies in America, Inc., Palladio's Literary Predecessors
      10. ^ Further information on the Rucellai family can be found on the Italian Wikipedia article
      11. ^ Liane Lefaivre, Leon Battista Alberti's Hypnerotomachia Poliphili, Cambridge: MIT Press, 1997
      12. ^ D. Mazzini, S. Simone, Villa Medici a Fiesole. Leon Battista Alberti e il prototipo di villa rinascimentale, Centro Di, Firenze 2004

      External links


      Read more: http://www.answers.com/topic/leone-battista-alberti#ixzz1vE5uu1C3
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    •   Italian family of artists. They came from Borgo San Sepolcro (now Sansepolcro, Tuscany), a town set on one of the crossroads between Tuscany, the Marches and Umbria, and flourished primarily in the 16th century, when the family workshop grew in size and several members achieved prominence in the visual arts. Alberto [Berto III] Alberti (b 2 June 1525; d 1598) worked in Borgo San Sepolcro and Rome primarily as a wood-carver but also as a painter, military engineer and cartographer, and left detailed diaries and account books covering 50 years of his family's activities.
      The following members have entries:
    • Alessandro Alberti
    • Cherubino Alberti
    • Giovanni Alberti

2012年5月18日 星期五

The Chinese Recorder 《教務雜誌》

1970年4月24日「刺蔣案」主角之一的黃文雄,今(18)日將獲頒政大首屆「傑出校友」榮譽,表彰其在民主與人權上所做的貢獻。

今天懷恩堂上日文課空檔時咖啡機旁
唐山書店的老闆過來說 昨天對臺大出版中心的建言很好:
"沒索引的書不能出版大學出版社就是該做榜樣.....網路索引要"史地GIS合作" .....
(我們參加一場其怪的出版外包/合作案"之新書發表會(經銷商說一套一萬美金)

顧亭林詩集(吳宓評注)的錯誤     發現"江上"是詩集的常用字   
可見當時的旅遊工具   的確是江湖客   "新詩"也一樣

黧顏白髮非前似,只有新詩尚苦吟。

同時金李多驍將,遺事江山只戰台。獨有臨風憔悴客,新詩吟罷更徘徊。

我想收集昔日今日世界出版社的科普產品: 《南極的故事》《科學新發現》

 
The Chinese Recorder 《教務雜誌》

  • 書名:The Chinese Recorder and Missionary Journal (全套 75 冊)
  • 編輯委員:汪靈光、查時傑(主編)、項潔
  • 出版資訊:臺大出版中心、基督教與中國研究中心, 2012年2月10日 , ISBN: 978-986-02-7510-0
  • The Chinese Recorder《教務雜誌》全套75冊首次完整問世,內容詳載1867~1941 西方宣教士在中國信息交流全記錄。議題內容多元豐富,為中國歷史上最珍貴的文獻,也是現今研究在華宣教史與近代中國的重要史料。臺大出版中心以基督教與中國研究中心珍藏之原書為主要依據,並 參照各版本編校、重製而成,更收錄美國 Pennsylvania State University 歷史學教授 Kathleen L. Lodwick 編纂之索引 2 冊,首次完整出版。並有獨家開發的 Web 版索引檢索系統CRISE ( CRI Search Engine ),為研究中國近代史不可或缺的利器。《教務雜誌》是圖書館典藏中不可或缺的重要文獻,其在基督教宗教史料上的第一手地位,更是無出其右。
【活動預告】2012.5.17(四)The Chinese Recorder《教務雜誌》發表暨座談會
  • 時  間:2012年5月17日(四)14:00~16:30
  • 地  點:臺大文學院2樓會議室
  • 活動洽詢:(02)3366-9301嚴小姐、(02)3366-9302汪小姐
  • 活動流程:
    13:30 ~14:00 來賓報到
    14:00 ~14:30 主席致詞、貴賓致詞
    14:30 ~15:10 
    • 甘懷真 老師(臺灣大學歷史系)主持
    • 林美玫 老師(東華大學歷史系):中國內地會宣教中國之歷史研究
    • 查時傑 老師(臺灣大學歷史系):老照片新故事:《教務雜誌》中所刊登的圖像介紹
   15:30~16:30
    • 甘懷真 老師(臺灣大學歷史系)主持
    • 古偉瀛 老師(臺灣大學歷史系):橫看成嶺側成峰-從Chinese Recorder中管窺天主教         
    • 查 忻 老師(輔仁大學歷史系):《教務雜誌》中關於長老教會臺灣宣教的介紹
    • 項 潔 老師(臺灣大學資工系):CRISE (CRI Search Engine): Reindexing the Chinese Recorder Index
   17:00 結束

2012年5月17日 星期四

從敘事角度以及作品總體思想內涵看《牡丹亭》的後半部

張貼人:網站管理員公告日期:2012-05-17
【中文系學術專題演講】
主講:王靖宇先生(美國史丹佛大學東亞語言文化系榮休講座教授)
講題:從敘事角度以及作品總體思想內涵看《牡丹亭》的後半部
主持:曾永義先生
時間:2012524(四)1030
地點:中文系會議室

Goya’s Ghosts 電影座談會 --- 東歐導演鏡頭下的十八世紀西班牙




臺大歷史系學會主辦史週影展
  • Goya’s Ghosts 《哥雅畫作下的女孩》電影座談會 --- 東歐導演鏡頭下的十八世紀西班牙
    • 時 間:2012年5月16日(三)18:00
    • 地 點:臺大文學院演講廳
    • 與談人:臺大歷史系花亦芬教授、臺大外文系張淑英教授

2012年5月11日 星期五

斯琴畫藝音樂會

週五音樂會  地點:懷恩堂 大堂 洽詢電話: 2362-5321
台北市新生南路三段90號〈近捷運公館站〉晚上七點 ※免費自由入場
   
2012/05/11 斯琴畫藝音樂會

2012年5月8日 星期二

何懷碩的自我完成


昨天多談東海大學,多是過去的事情。今天可以談現在的事情,那就談對稱的臺灣大學。以前常去圖書館上網,現在接上最陽春的ADSL,自然比較少去----這樣利弊互見。昨晚玉燕給阿丁家請,我放了「煮夫假」,就去臺大晚餐,後來在校園繞一圈
竟然碰到通識教育論壇「我的學思歷程」(這系列已出版五本書):何懷碩的自我完成 : 說世代 自我完成 說台灣藝術界之黑暗 說民族主義
基本信仰:超越自己的種種限制 完成自我: 天下事最重要的: 把你自己這塊材料鑄成器。
我之前當然讀過他的批評文章。他罵過鹿橋的《未央歌》絲毫沒寫抗戰,這令我討厭他。不過猶豫一陣之後,還是覺得應該見一下他。他的眼說很多脫題,換句話說,或許他是位二十幾歲就定形的人,所以沒有「思想的發展史」可言。不過他認識不少文藝界的人:葉公超和梁實秋推薦他回師大當助教,沒成。他是80年代末澄社的發起人之一,這是最重大的成就;他1999年在歷史博物館半畫展之後,決定那是最後的公開展,從此要隱…….他說他的回憶錄》會很精彩的,請拭目以待
他讓在場的臺大人有點尷尬: 「殷海光被破害時,沒有臺大人出來抗爭!」「副校長,你認識林衡哲嗎? 什麼,竟不認識!……他翻譯的《羅素回憶錄》中的三種生命的激情,愛情,知道,對不公平的無可抑制的同情…….
(我們同棟樓有位八什多的老太太,隔天說,她知道我去聽演講,何先生講話就是這個調調,她在師大聽過她演講……)
讀尹仲容之郭嵩燾年譜 》。一些話可當作昨日演講之注
"世須才才亦須世。"郭輓左
"世事多因忙裏錯好人半自苦中來"曾國籓。原聯為傅斯年家藏。



本校100學年度第2學期通識教育論壇「我的學思歷程」~何懷碩教授主講 2012-04-23 
(一)演 講 者:何懷碩教授 (台灣師範大學美術系及研究所)

(二)主 持 人:羅清華副校長

(三)時  間:101年5月8日(星期二)晚上7:00至9:00

(四)地 點:本校文學院演講廳

(五)主辦單位:本校共同教育中心


說世代
說 自我完成
 說台灣藝術界之黑暗
 說民族主義


 一九四一年生於廣東潮安 學歷: 武昌湖北藝術學院附中 湖北藝術學院美術系 臺灣蘆州橋大先修班 國立臺灣師範大學美術系畢業 美國紐約聖約翰大學藝術碩士 中外知名水墨畫家與書法家 經歷: 任教中國文化學院美術系 任教於世界新聞專科學校電影科 國立藝術學院副教授 臺灣師範大學美術系碩博士及研究所教授   國內外展覽紀錄: 歐美、中港臺展出多次 獲獎: 畢業系展第一名教育部長獎 第17屆十大傑出青年 中國文藝協會文藝獎章 當選國際青商會十大傑出青年

著作: 《孤獨的滋味》 《創造的狂狷》 《何懷碩畫集》,
1973 《苦澀的美感》,1973 《十年燈》,
1974 《藝術、文學、人生》,
1979 《風格的誕生》,
1981 《懷碩造境》,1981 《何懷碩畫》,
1984 《煮石集》,
1986 《藝術與關懷》,1986 《大師的心靈》 《給未來的藝術家》 《懷碩三論》 《繪畫獨白》,
1987 《變》,
1990 《何懷碩庚午畫集》,1990 《何懷碩四季山水長卷》,1990   編《近代中國美術論集》(六冊),
1991   校訂《傅抱石畫論》,1991 《何懷碩文集》,
1993 《人生論:孤獨的滋味》、《藝術論:創造的狂狷》、 《藝術論:苦澀的美感》、《畫家論:大師的心靈》,合輯出版,
1998 《何懷碩己卯畫集》,
1999 《域外郵稿》 《給未來的藝術家》等近二十部

評審經歷: 臺北國際婦女會繪畫比賽評委 巴西聖保羅第十二屆國際雙年展審選委員 國家文藝獎、全國美展、全省美展評審委員 典藏: 中外美術館、博物館與著名現代藝術收藏家所收藏

擅長山水、書法,也是知名評論家和文學家,著作甚多。曾獲得十大傑出青年。 何懷碩認為美是一種心物交融,企圖以苦澀的美感表現崇高淡雅的氣質。

何懷碩三論(套書) 

作者:何懷碩

  • 出版社:立緒
  • 出版日:1998/1
  •  《懷碩三論》是藝術家、評論家何懷碩先生30多年來所寫的文字精華大整合。包括他過去出版十本書中最重要文章的精選、修訂以及近十年來所寫未出版的新著。
    三 論是《人生論》、《藝術論(上、下卷)》、《畫家論》共四冊。分別為《孤獨的滋味》、《創造的狂狷》、《苦澀的美感》、《大師的心靈》,涵蓋了他人生、思 想、心靈活動的全領域。《人生論》是他在人生行旅中種種品味、發見、感想與思索的文章。《藝術論》是他藝術思想截至目前為止最重要的觀念性論述文字。《畫 家論》則是他對近代一個半世紀以來中國最傑出畫家的評論。懷碩先生的另一隻筆則是他的繪畫創作,繪畫與文字創作對他來說是行者的兩足、飛鳥的雙翼,兩者他 都有同樣豐碩的成果,在畫壇上是少見的異數。《懷碩三論》四書之出版可以說是他三十年心路歷程之告白,也意味著他另一生命階段的再出發。而對於與他神交的 讀者朋友以及後來者,《懷碩三論》的編輯出版也隱含了他對他們的感激與期待。

    作者:何懷碩,1941年生,台灣國立師範大學美術系畢業。美國紐約聖約翰大學藝術碩士。先後任教於國立師範大學、清華大學。現任國立藝術學院教授。出版著作《苦澀的美感》等共十冊,繪畫創作出版有《何懷碩畫集》等五冊。

    序:人生論:孤獨的滋味
  •  
  • 生而為人,若對人生沒有感想與議論,是很遺憾的事。
    這 本《人生論:孤獨的滋味》就是我30年來對人生世界的吟味、思索與感想的文集。收入本書最末的一篇叫「游思艸」,其實那是我20出頭所發表最早的散文。雖 然現在已修削過,但仍不掩其少作之幼稚。幼稚誠可紀念。沒有想到後來我寫那麼多量的論評文字。不過,從「游思艸」起,我斷斷續續也寫了不少這一類文章。立 緒出版社今年出版我三種書(四冊),並為此書署「人生論」的副題。在人生的行旅中發感想,確是我最愉快的心智習練。這本書精選了我的《煮石集》(1985 年「聯副」煮石集專欄;1986年圓神出版社出版)中的一部分及在它前後所寫的同類文章。尤以1991年至95年應香港明報月刊之邀所寫的專欄(同時在台 北中國時報「人間」副刊發表)為最多。每篇末尾附有寫作年月,但略去發表處所,也不按時間次序。所謂精選,大體上以能超越時空局限,有普遍、永續的意義者 才入選。雖不敢「與永恆拔河」,但時過景遷的文字都嚴予淘汰。此次並做了一番修訂。
    思辨與抒感是這些文章的兩個特色。將我所深信的理念與心中真誠的感受通達地寫出來;不在「作文」或「炫巧」。這是我寫文章的信念。本來想寫一篇長序,忽然覺得沒有必要。也來不及請師友寫序。謹附錄梁實秋先生1986年為《煮石集》所寫的序留作永遠的紀念。-----何懷碩??998年4月24夜於台年8月於台北
  •  
    文/余光中
    何怀硕 月照大荒 75X99.5cm 2000年作
    何怀硕 月照大荒 75×99.5cm 2000年作

    何懷碩月照大荒75×99.5cm 2000年作

    何懷碩手中的那枝健筆,不但能畫,而且能文。他的書法也很俊逸:三十年前為我所寫的黃庭堅水仙詩,一直高懸我客廳的顯處。何懷碩當然是卓越的名畫家,也是犀利的評論家,筆鋒所至,廣闊的題材如生命與社會,專業的領域如中西畫史與畫家專論,無不雄辯滔滔,趣談娓娓,動人清聽。

    到1998年為止,他的著作已有十三冊,但其中有部分重疊,而《懷碩三論》 百花文藝出版社,即《孤獨的滋味》(人生論)、《苦澀的美感》(藝術論)、《大師的心靈》(畫家論),當為他一生評論的核心。加上2003年新出的經驗之談《給未來的藝術家》,評論家何懷碩的成就相當可觀。

    《給未來的藝術家》令我驚喜,因為所附的插圖令人大開眼界,不但有中西現代畫的名作,還有當代日本與中國的佳作,大多為我生平初見。而尤其令我興奮的,是其中還包括何懷碩的最新作品《夢幻金秋》(2000)與《觀音山》三幅(2003)。另一新作《川端康成》(2003)肖像,繼以前的《吳昌碩》、《齊白石》、《黃賓虹》、《杜甫》之後,說明了何懷碩的人像畫另有勝境,不容他當行本色的山水畫完全遮掩。

    《孤獨的滋味》是何懷碩的人生論,是他從在台港報刊所寫的專欄中選出的六十六篇文章,題材自宗教到文化,美容到嗜好,自由到自卑,悲觀的快樂,有的形而上,有的塵世間,有的說理,有的抒情,顯示作者興趣之廣,學養之富。大致說來,作者的態度是嚴肅的,卻不時透出幽默,甚至冷嘲熱諷,有時更正話反說,大做翻案文章。例如《說減法》一篇,就指出現代人物慾太重,凡事貪多,反為所累,所以若求心安理得,就應舍無厭的加法而行有守的減法。又如《說自由》一篇,開端就跟盧梭抬槓,迳說“人乃生而不自由”,因為時代、地區、家庭、體質、相貌等等都已先天注定,不由自主。又說人之一生,孩時固然不能自主,老來又何曾能得自由;中間的青年與中年更是難關重重,淪為虛榮與貪念之奴,所以自拯之道只有在精神上超越這種種束縛。

    何懷碩的文筆大致流暢自然,不時有警策之句;說理的時候不淪於單調,故有理趣,而抒情的時候則更見生動,富於情趣。他不僅是人生世態的評論家,更是相當出色的散文家,甚至頗具抒情散文家的潛能。其實中國藝術的傳統本來就有“畫中有詩”之說,非但畫境有詩,抑且畫上常常題詩,所以凡有中國文化修養的畫家,本質上都是詩人,而會寫抒情散文原很自然。所以在《繪畫與文學》的長文中何懷碩就說:

    詩為“精神理念”與“感性形式”之中庸,為客觀藝術與主觀藝術兩端之和諧的結合。所以,我以為詩為一切藝術之靈魂。但這樣說,似乎說一切藝術只是一具軀殼,我不是這個意思。換一句話來說,其他藝術與詩在最高精神上是殊途同歸。

    我曾有《繆思的左右手》一文,比較詩與散文的關係,結論是:“詩是一切文體之花,意象與音調之美能賦一切文體以氣音:它是音樂、繪畫、舞蹈、雕塑等等藝術達到高潮時呼之欲出的那種感覺。散文,是一切作家的身份證。詩,是一切藝術的入場券。”此意與懷碩之說當可互相印證。

    懷碩的藝術論,體大思精,是他專業評論的扛鼎力作。其中的四十多篇文章裡,有些地方會相互重複,但是不論研討的是藝術的本質,藝術與其他領域的關係,中外藝術史觀,或是個別藝術家的評價,何懷碩的論述都“吾道一以貫之”,基本的信念謹守不渝,那便是:一位藝術家努力的方向,應該是在民族性的本位上發揮自己的俱性;如果越過民族性而要追求所謂的世界性,則不但民族性會被架空,而且會發現,所謂世界性實際上只是文化帝國主義泛西化的幻覺而已。但是在另一方面,中國繪畫的傳統累積既久,陳陳相因,對現代畫家的壓力太大,無論在題材或技法上都必須突破,所以向西方借石攻錯亦為生機。不過,取法西方只是一種手段,不能誤為目的,否則就會喪失自己的民族性。同時也不必趕著西方的潮流一路追踪步武,成為西化之奴。中國繪畫需要現代化,但西化不等於現代化;西而不化,就不能為現代化帶來生機。美容,畢竟不是變化體質的健美之道。正如何懷碩在《說美容》一文中所說:“過度'美容'的後遺症就是'毀容'。”他更指出,改善中國繪畫之道,也不盡在向西方取經。例如沿習日久的文人畫,養成了以簡馭繁,以逸代勞,以不畫為畫,以留白為含蓄,以文人名士遺世忘俗自高,甚至淪繪畫為文學雅趣之附庸。於是豪傑之士力圖自拔,而有吳昌碩與​​黃賓虹向金石的鐵畫銀鉤去求古拙,任伯年與齊白石向民俗的江湖市井去求天真。

    何懷碩的結論是:傳統藝術要現代化,外來藝術要本土化。這信念與我在文學上一貫的主張完全相同。

    《大師的心靈》一書是何懷碩的畫家論。此書使我得益匪淺,不但可以認識中國現代畫個別的大師,更可進而窺探百年來中國畫史的演變。何懷碩在近百年來的畫壇名家之中,嚴格選出了八位大師,依次為任伯年、吳昌碩、齊白石、黃賓虹、徐悲鴻、林風眠、傅抱石、李可染。

    《大師的心靈》一書由一流的名家來細說他的前輩,誠然高明,而所附的插圖也選得很豐富,可以大開讀者的視野。例如傅抱石的那幅《湘夫人》,印證的詩境是“嫋兮秋風,洞庭波兮木葉下”。那帝子綽約的豐姿,那漫天降落的楓葉,襯著洞庭層層迢遞的風濤,那種神秘的清淡高雅,雖然沒有波提且利的《維納斯之誕生》那麼富麗,性感,但其微妙的魅力卻不遜色。連屈原見了,怕也會驚艷不已吧。好在楓葉沒用艷紅著色,否則就墮入商業氣息的陋俗了。
    (自序)人生论:孤独的滋味
    
    说知已
    
    说角色
    
    说快乐
    
    说娱乐
    
    说养生
    
    说修养
    
    说自卑
    
    说美容
    
    说食色
    
    说两性
    
    说今昔
    
    说新旧
    
    说进步
    
    说世代
    
    说未来
    
    说宗教
    
    说果报
    
    说慈善
    
    说上帝
    
    说天人
    
    ……

     

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何懷碩:我和天才有心靈的共鳴

華夏經緯網 2009-10-29 資訊來源:時代週報        發表評論  查看評論


    “現在文化人也是圓乎乎的,講好話,但絕不講真話。我覺得人類要有一個大轉變,不然會死亡,無法維持下去。我幻想有一天會有驚天動地的大改變。”
  多年前讀“懷碩三論”,對其中《大師的心靈》一書印象尤深。何懷碩選任伯年、吳昌碩、齊白石、黃賓虹、 徐悲鴻、林鳳眠、傅抱石、李可染為百餘年來八大畫家,獨不選張大千。在韋政通先生的家中看到何懷碩的書法,一問,才知他們時相過從。韋政通先生打一個電話 給他,幾天后我便坐在何懷碩先生位於碧潭的家。
  既不因襲舊說,亦不阿俗媚世
  何懷碩談起大陸並不隔膜,早年在大陸生活,十幾歲才離開湖北到香港,再由香港到台北讀大學。記憶裏,小時候天天 搞鬥爭,沒法讀書,喜歡文藝的何懷碩感覺不適:“我不肯喊口號。每個人的人生都只有一次,我們要做自己生命的主人。中學我是右傾,如果大學就是右派了。喜 歡讀書變成罪了。”
  在台灣師範大學美術系學成後,何懷碩紮根台灣。他右手畫畫,左手作文,並結交了不少文化界的前輩。何懷碩從小就 把梁實秋的作品看得很熟,在台灣有機會認識梁實秋,自然高興,常常聚會吃飯。“我是他的學生的學生,我和他認識的時候已經是一個從事藝術和寫作的人,他固 然是對我很鼓勵,但是沒有把我列入學生名單,因為我和他變得有點像忘年交了。”1986年,梁實秋為《煮石集》寫序,稱讚何懷碩是一位傑出的畫家。“于繪 畫之餘他也寫一些有關藝術的評論,既不因襲舊說,亦不阿俗媚世,卓然成一家言。”
  在上世紀70年代,何懷碩受邀到美國舉辦展覽,沒想到一去多年,期間獲美國聖約翰大學藝術碩士。不同於多數人留 居美國,何懷碩還是想回台灣:“長居美國,一生小孩一買房子,基本上不大可能回來了。所以我趕快回來,不想做美國人。我關心中國的文化,變成美國人有什麼 意思呢?台灣那時候比較苦悶,在美國比較自由,因此很多人都比較羨慕留洋的人。但是我不羨慕,我要做中國人,寫中國文章,寫中國批判。”1979年,何懷 碩列名台灣第17屆“十大傑出青年”。
  環顧當今台灣文化界,何懷碩有老輩凋零之嘆:“像梁實秋、臺靜農這樣的人沒有了,我並不認為台灣現在能夠跟上一代的人比,這個時代沒有人才了,尤其人文藝術,突然沒有人了。”
  “我幻想人類有一個大改變”
  當我問起台灣的藝術界人物,何懷碩的評論常常出人意表。在評點劉國松、朱銘等藝術家之後,何懷碩有感而發:“有 些人是時代的產物,享受到時代的恩賜。歷史的選擇不一定理性,各種因緣際會弄成一個現象,有人得利,有人倒楣。很多人才反而被掩蓋了,某一些人就凸顯出 來。現在這個世界沒有什麼真的,背後都是名和利,很可怕。”難怪金耀基先生1979年為何懷碩《藝術·文學·人生》寫序說:“何懷碩對中國繪畫傳統的輝煌 成就與局限性的分析,對古今畫家成敗得失的批解,每每能獨具只眼,言人所未言。好,好在哪,壞,壞在何處,他一一予以正面的交待,一點也不含糊,你可以不 同意他的評斷,但你不能回避他的論點。”
  談起書法,何懷碩頗有心得:“清朝是靠碑來建立書法的基礎。因為寫字帖寫不過唐朝的顏真卿、褚遂良這些人,到宋 朝的蘇東坡、明朝的唐伯虎,這條路都是文人秀麗精緻,但是越寫越滑,陳腔濫調。清朝的書家感覺到,民間刻在石碑上有很多不同的風格。我常常說很多人都是傳 統的奴隸,認為書法的最高潮是唐朝,其實我認為最高潮是清朝,兩千年來寫得最好的是清朝人。這百年來,都是繼承清末的遺產。台灣一百年來能夠列為大書法家 的就是于右任了。”
  如今,何懷碩是台灣師範大學美術系及研究所的教授,每天要到大學教書,而自己必須有靈感才創作。“我沒有很多創 作的意願,現在這個世界讓我覺得很多靈感都被消滅了,畫畫以前不多,現在更少,但是我沒有完全停掉,寫字。”然而,讀書花的時間最多。“我們每人生來都很 愚笨,多讀書,減少愚笨。這個世界太複雜了,我花很多時間去看金融危機,了解為什麼這麼多人會上當。我是什麼書都讀,非常好奇,我對知識的興趣很廣,你看 了會覺得我這人不務正業。”
  何懷碩對藝術家的修養看得很重:“藝術要有震撼心靈的力量,那是思想的力量。想在藝術創作上有獨特的內容,就要 把自己想成一個世界人,一個普通人,一個追求知識的人。藝術要有很廣的來源去支援,才有內容,不然就是一種感官的娛樂。”而對文化藝術界流行的東西,何懷 碩頗有感慨:“我不會寫文章去批評某些人。時代變化,現在很難支撐好的東西,商業化,大眾化,媚俗,不得罪人,各方討好,沒有辦法像以前那樣有個性、主 張。現在文化人也是圓乎乎的,講好話,但絕不講真話。我對這個世界很失望,我覺得人類要有一個大轉變,不然會死亡,無法維持下去。我幻想有一天會有驚天動 地的大改變。”


何懷碩

中國國畫的畫法,於宋元之間,也即在西元第十至第十三世紀之間,臻於完善境界,但畫家們雖各有其特色,畫風則多沿襲,少有新創。今天在台灣的青年畫家們,可就和前不同,他們創出了新畫法、新意境、和新技巧。在這項創新運動中,何懷碩是其佼佼者。
何懷碩的畫兼有親切和遠不可攀的感受。在他的山水畫中,我們見到許多曾經相識的景象,但虛無飄渺,似又不在現實世界中。中國國畫中常見村落水邊泛舟,在何懷碩的畫中也有,但其畫法卻不相同,因為運用了許多新手法,足見其不受傳統的束縛。
何懷碩非常熱愛他的家鄉。他說每一畫家都是在他特殊的鄉土環境中成長的。他的家鄉語言、歷史、文化、傳統、和價值觀,構成他對人生的看法,這些都應該在他的作品中反映出來,才能顯出他的獨特風格。

何懷碩認為想成為一個藝術家,須先學會如何發現自己。「雖然我教學很多年,但我無法教學生直接成為藝術家,還是要靠自學,成就自己的藝術風格。盲 目跟從大師是沒有用的!」舉張大千為例,何懷碩說,張大千在他心目中,是一個在技巧上可以獨步千古的畫家,描繪任何事物都可以模仿得維妙維肖,但既然是模 仿就不是藝術家,只能說繪畫技巧高超。而這也是現今大多數人對藝術的誤解。
「不要老是去找名家來拜師,或買一些教技法的書來學畫鳥、寫花繪、畫人體。並不是技巧很好或學很多就可以成為藝術家。」何懷碩進一步闡釋,藝術應 具備獨特性、母體文化的傳承以及反映所處時代精神等三要素。所謂獨特性也就是擁有藝術家自己的靈魂,這是靠自我追尋所回歸的本我;母體文化指的是一個人成 長的文化背景與素養,比如,如果一個猶太人沒有猶太人的風格,必然是從小遠離猶太人的圈子,或根本是自己揚棄猶太傳統,變成別人的跟屁蟲。至於反映時代的 精神也很簡單,如果生活在戒嚴時期的台灣,學書畫,卻畫黃山而不畫台灣山水,就是不具備時代精神。

何懷碩〈不靠邊,說語文之1:兩岸漢字的問題〉

◎何懷碩/聯合報

將「繁體字」稱為「正體字」是錯誤的,因為毫無依據。漢字在歷史上並無鐵板一塊的「正字標準」,而是隨時代的推移而演變。其實世界各國都如此……

漢字從初創至今,考古學家告訴我們,起碼已有六千年。在世界所有古文明中,漢字是唯一歷史最悠久,而且從未中斷的文字。到今天進入科技資訊時代,漢字獨特 的優點和強大生命力,不是其他文字所能取代。古漢字在先秦歷經長期的混亂、演變、裁汰與整編,在漫長的「約定俗成」的過程中成長,漸漸建成世界上最早、最 卓越的表意的符號系統。秦帝國統一文字,使天下「書同文字」,對漢字規範的促進,符號系統的穩定(統一與穩定是文字卓越功能最重要的因素),有歷史性的大 貢獻。數千年來以漢字為載體的中國文史哲龐大光輝的遺產,是世界的奇珍。

二十世紀國共鬥爭,國家分裂。兩岸各以政治干預語文,破壞語文自然發展的規律,漢字在大陸與台灣遂發生分化。「毛主席」於1951年宣布「文字必須改革, 要走世界文字共同的拼音方向」,其終極目標是要以拉丁(羅馬)拼音來取代數千年的方塊字。第一步先推行「簡體字」,採橫排字序自左至右的世界拼音文字的方 式。「蔣總統」在台灣則堅守傳統的「繁體字」,為因應自「五四」以來橫排的新需求,但誤認漢字書寫的「橫披」為橫排的「傳統」,所以由教育部多次頒布自右 至左的橫排字序。從此兩岸漢字規範有別:左右異向,繁簡殊途。大陸急進,台灣守舊,其實各有偏頗。主要是兩岸政治權威破壞文字本來在民間緩慢經過「約定俗 成」、汰劣存優的規律,也壓縮了精通語文的學者自由討論的空間。

四十年前在台灣,關於中文橫排,字序應該自右至左還是自左至右,爭論不休。我從1975年到1989年,二十多年間在各大報寫了五篇文章,主張中文自古沒 有橫排的傳統;橫披或匾額看似橫排,其實是一行一字的直排;若採橫排,只有採用西方拼音文字自左至右唯一合宜的方式(一方面為配合引用西文與阿拉伯數字, 一方面是書寫時手勢與目視的方便)。但好像狗吠火車,主管者行政院、教育部、新聞局充耳不聞。而且有許多一知半解的中文系教授,擁護政府,反對自左至右。 直到前幾年,各報才悄悄先後「採用」我呼籲多年的主張。現在凡橫排皆自左至右,再沒有人出來反對了。不久前又有到底漢字拼音應該採用「漢語拼音」或「通用 拼音」,爭論不休。因為政治意識形態的介入,不肯採用全球及聯合國都已一致採用的「漢語拼音」。掩耳盜鈴,以為不與大陸相同,便是維護主權。種種荒謬的理 論與政策,充分反映台灣凡事泛政治化、自陷困境的不智。

近年有關「繁體字」與「簡體字」的爭議,我在台港報刊發表〈繁體與簡體〉、〈漢字爭論應超越繁簡〉二文,再次指出大陸急進、台灣守舊,各有偏頗。我不「靠邊」,自然兩岸「政治權威」都不會喜歡,又只是狗吠火車。

大陸急進,簡體中有少數用一個同音字代表多個不同形、不同義的漢字;又有些字簡過了頭,造成文字功能的破損,雖為數不多,但最遭詬病。台灣守舊,毋視文字 自古與時俱進的演化規律,以僵化守舊為「捍衛傳統」。其實,簡化是自古已有的趨勢,漢初的草隸、章草,漢末的今草,唐代的狂草都是見證。使用文字的知識分 子與大文豪、大書家以及大眾的書寫,可以說是代代人人都在追求簡化的方向。這數千年漢字書寫的史實,其實就是漢字力求簡化的歷史。大陸的簡體字大體上是回 應歷史發展的要求,容或有上述某些不合宜處,但絕不如台灣政治人物與抱殘守缺的「教授」誇大指控為「破壞中華文化」。我在文中說過:「合宜的簡體,只是將 筆畫太多的字簡化而已;是減肥瘦身,不是換心換腦。」也可說只是將某些行草書,經過楷化,納入「印刷體」,替換過於繁複的楷書而已。

幾年前,馬總統還是台北市長,曾打電話與我討論這個問題。我告訴他:將「繁體字」稱為「正體字」是錯誤的,因為毫無依據。漢字在歷史上並無鐵板一塊的「正 字標準」,而是隨時代的推移而演變。其實世界各國都如此,幾百年前莎士比亞的英文已成古文,英文幾百年中也逐漸在變。漢字篆、隸、楷各體都曾經是不同時代 的「正體」,秦、漢、唐宋,我們要採用哪個朝代為正體標準呢?何況李白、蘇軾、倪元璐、董其昌、何紹基……許多不同時代第一流人物都在寫「簡體字」(行草 書),什麼叫「正體字」呢?又何況「繁體」對「簡體」,合乎「名言界定」的邏輯;「正體」與「簡體」,則暗含褒貶,便失去陳述事實的客觀態度。政府應謙 虛。在其他事務上亦如此。我看對政府殷殷建言者,經濟方面如馬凱,政法方面如胡佛,其他方面如南方朔、余光中、嚴長壽、張作錦及入籍星國前的曹興誠等,他 們的建言,政府似不大聽得進去。媒體丕變之後,現在諤諤之士的言論已經不多見了,政府應兼聽而不偏信,誠心察納雅言讜論才好。不能表面是溫良恭儉讓,其實 只是傲慢武斷。莫怪有識之士不是遠去,便是噤聲。

三年來兩岸已經不再劍拔弩張,經貿往來頻密,但政軍互信尚未達成。我認為漢字因過去的對立所造成的分歧,亟應謀求協商彌補。在同一個文化體中同宗的語文, 任其支離破碎,各執一「體」,對兩岸的交流與教育,對中華文化在世界的地位與影響力,都是大不利。語文是文化問題,可以超越政治,不管未來兩岸如何和平解 決,漢字絕不應有兩套。對我們的子弟,對國際人士,繼承或學習中華文化,也是大障礙。如何重建漢字規範,我在2009年六月《亞洲週刊》文中有具體的倡 議,不再贅述。去年十二月,文化總會會長在「應先和大陸談文化」的標題中,說要「推動王道文化」,非常高瞻遠矚。而兩岸漢字繁簡長期分歧的問題,雖不如簽 訂ECFA那麼急切與功利,但台灣誇言要做「中華文化的領航者」,豈不亦應當把它列入「談文化」首要的議題嗎?我們非常期待。